ジャニヲタになれたつもりだったけどなれなかった(前編)

初めてここでブログを書きます。

自分の心に整理をつけたかったので、なぐり書きのようなものです。
あまりに長い自分語りも含まれるので流し読みしてもらえれば幸いです。
(身内が読めば身バレするけどこの際気にしません)

わたしが25年かけて、いかに紆余曲折しながらジャニーズに、関ジャニに出会ったのかを、自分のためにも残しておきたかったので書きます。

 

渋谷すばるジャニーズ事務所を退所するというニュースを目にしたとき、あまりにも衝撃が大きすぎて、ごくりと飲み込むことしかできなかったけど、そのあとじわじわ、事の大きさを噛みしめては、涙ぐんだり、友達に悲しみを投げつけたりしていた。

 

夏に予定しているコンサートも6人で行われるとのこと。
もちろん、ツアーが発表されてからは行く気満々だった。

けれども。

6人で、ということが決まった以上、自分の中で、若干ストップがかかり始めていることにも気づいた。7人のライブを上書きすることにならないだろうか、とか。

2016年の元気が出るLIVEでは、ドラムの大倉氏の体調不良により、最終公演日は6人でのライブとなった。そしてその日のライブが映像化された。

自分は東京公演に参加していたため、7人でのライブは見ていた。
だけど記憶というものは薄れるもので。DVDを見ながら、衣装の再確認とか、フォーメーションとか、そういうのを再確認したいという気持ちもあったので、
結局そのDVDは通して1回見たか見てないかという感じである。

自分が見た記憶の中の映像が上書きされるのが嫌だったから。

 

そんなわけでこれからのライブを見ることで、私の中で本来のというか7人の姿が
だんだん薄れてきてしまうのではないかという懸念がある。

 

 

わたしは関ジャニを好きになってからまだ4年くらいで、昔からのファンからしたら新規だ。そして、人生でおそらく最初で最後に好きになったジャニーズになると思う。

人生で一度はジャニーズを通過するかと思っていたが、よもや30代も半ばにそれが訪れるとは本当に思ってもいなかったし、最初は自分でも信じられなかった。

自分は一生ジャニーズは通らないんだろうなと思っていた。

でも、結局関ジャニ以外のジャニーズにはそこまで興味は持てないものの、ジャニーズの文化などは楽しく受け入れられるようになってきた。担当という言葉にも最近では違和感を感じなくなってきていた。

 

わたしはすばるくんから担下りできるのだろうか。

 

 

思えば、人生で出会ってきた音楽の順番が、ちょっとずれていたのかもしれない。

(ここからかなり長い振り返り文です。最後に辻褄は合うけど長いです)

 

現在の自分はアラフォーなので、音楽の歴史を振り返ると、それなりに古い。

最初に音楽にズドーンと嵌ったのは、中学生のころにユニコーンを聴いてから。
もちろん再結成じゃなくて、90年代初頭の話です。
うちは父親が音楽好きで、小学校のころからエリック・クラプトンのライブに行ったりしていたので、コンサートやライブに行くことは割と日常茶飯事でした。

でもそれは親について行っていただけで、初めて自分の意志でライブに行きたいと思い、初めて自分でチケットぴあに行ってチケットを買ったのがユニコーンでした。

しかしそのライブが実質解散前のラストツアーとなり、後日、オールナイトニッポンの特番でユニコーンの解散が発表されたときは、多感な年頃だったため、ショックが大きすぎたのか、次の日学校を休んだ気がします。

ユニコーンの少し後に好きになったのが、東京スカパラダイスオーケストラです。

何がキッカケだったのかは正直覚えていません。でも高校のころにたぶん一番ハマっていたのがスカパラで、年間で10回以上はライブに行った記憶があります。
高校2年の修学旅行の時に、スカパラのフロントマン、クリーンヘッドギムラ氏の訃報を耳にしました。(修学旅行から帰ってきたら、父親が一番最初に教えてくれた)
ギムラ氏は、、ボーカルというか、フロントマンという言い方がぴったりで、CDによっては、担当が「グルーヴ」とか「におい」とか、そのような表記でした。
アラサー以上の人にしか分からない喩えをすると、ヘルマンでいうウルフ、電気グルーヴでいう瀧みたいな、、、そんな感じ。

しかしながらかなりの存在感でスカパラのフロントに立っていたギムラ氏がいなくなり、弟のルイ氏が加入することになるのですが、正直最初は違和感しかなかった。
その後も、ドラムの青木氏が不慮の事故で亡くなったり、メンバーの入れ替わりも多かったのです。スカパラ5周年のライブは日比谷の野音で行われ、それはそれは豪華なメンバーがゲスト出演したのでした。(オザケン、スチャダラ、初期メン、渡辺満里奈、etc…)いまだにあれは行けて本当によかったと思っています。


スカパラを中心に、スカパラ周辺の人たちにも興味が沸き、DJイベントにもこっそり行ったりしていました。当時はアシッドジャズが流行していて、MONDO GROSSO、沖野さん(KYOTO JAZZ MASSIVE)マンデイ満ちる、U.F.O、DJ KRUSHなどをよく聴いていました。(当時、NHKだかBSで放送されていたTOKYO DEEPという番組はかなり貴重な番組だったと今でも思っています。)これが高3?大学?あたり。

 

そのあとにハマったのは、ミッシェルガンエレファントです。
当時のわたしはTVKテレビ神奈川)のミュートマジャパンを見るのが日課で、
新しいバンドのPVを見ては、好きになったりならなかったりを繰り返していました。
ある日、ゲット・アップ・ルーシーのPVが流れ、頭に衝撃が走ったのを覚えています。
それが97年ごろで、2003年の解散まで、人生のほとんどを捧げていたかもしれません。ミッシェル好きの友人と、ゴリゴリのロックDJイベントを開催したりしました。
YOYOGI RIOT!というシークレットライブでは、小雨降る中早朝から並び、前から2列目で拳振り上げていました。(そして当時のロッキンオンジャパンに写真も載っている)

ミッシェルが解散したときは、本当に悲しくて、最後のエンドロールでバイクが燃える映像を見ながら、本当に終わったんだな、という気持ちが強く、私の中でミッシェルは完全に死んで、終わりになっていました。なのであれだけ好きだったのに、音源はおろか、解散ライブのDVDなんて15年くらい経つのに未だに観れていない。

そして追い打ちをかけるように、その数年後、ギターのアベフトシ氏の突然の訃報。
これでミッシェルは未来永劫、再結成や復活することはないんだな、と実感。
チバ氏は現在でもTHE BIRTHDAYなどで活躍されているけど、ライブに行ったのは片手で数えるくらい。

ミッシェル解散後か、その前後では、下北によく出没していていました。
ほぼ毎月、GARAGE、シェルター、QUEなどを中心に、ギターポップ系のバンドのライブをよく見ていました。そのころからストレイテナーをよく聴いていました。

テナーは最初二人バンドだったのに、ひなっちが入り、OJが入り、今は4人で今年はついに20周年!すごい!長続きしてくれてありがとう!

…話が逸れました。

 

そして2002年ごろから夏フェスに行くようになり、大学に入学してからは先輩の影響で洋楽も聞き始めていたため、毎年の夏フェスが本当に楽しみでした。
春は荒吐、夏はフジロックサマソニ、秋は朝霧、冬はCDJFと、20代中ごろまではバイトしながらフェス三昧の生活を送っていました。
転職したりなんだりで生活が変わり、結局現在はほぼサマソニしか行っていません。
10年ちょっと前には、シガー・ロスの影響で、憧れだったアイスランドへ旅行に行ったりもしました。

ここ数年は、洋アーティストのライブに行くほうが多かったです。

(去年は、シガー・ロスBECKにしか行ってない)

 

 

そんなわたしがどこで関ジャニと出会ったのか

 

 

それは確か2014年の2月ごろ。
下北時代の友人を中心に、10年以上よく遊んでいるグループがいて、定期的に鍋会が開催されていた。
その時の一人が関ジャニのDVDを持ってきていて(もしくは持ってたのかも)
話の流れで見ることになった。
もちろん、全く、興味がなかった。

ただ、鍋を食べながら見ていたのだけど、まさかの1曲目が、バンド演奏で
しかもイントロから心つかまれて、な、なんじゃこりゃ!!と、ミッシェル以来の衝撃を受けた。そう、そのとき流していたのはJUKE BOXのDVDなのでした。

 

めccっちゃかっこいいじゃん!!!!!

 

わたしはその日まで、渋谷さんのことをシブヤさんだと思っていたし、
昔のイメージで、関西のガラの悪い、絶対にお近づきになりたくないタイプで、本当に苦手だった。

はずなのに。

赤いケーブルのマイクを握りしめ、なんか半端ないオーラを出してバンドをバックに歌う渋谷さんを見て、やべーー、やべええええええええ!と思っていた。

もちろん、人生で初のジャニーズのDVDだし、バンドもやって、歌って、踊って、コントもやる関ジャニを見て、ある意味カルチャーショックを受けていたのかもしれない。

そして面白いことに、その時にいた鍋会のメンバーが、ほぼ同時に関ジャニにハマるという現象が起きた。(後に、そのメンバーとコンサートで毎回4連することになるのだけど。)

 

かくして、わたしの関ジャニ人生が始まったのである。

 

※想像以上に長くなりそうなので、続きは後半へ。